フランス 喜劇関連エントリー

フランスの古典喜劇「舞台は夢」。

... 日本でいえば江戸時代初期に書かれた フランス演劇の古典である。 …こう書くと、 ちょっと“とっつきにくそう”な感じがするでしょ? ワタシも観る前は心配だった。 チラシによれば“喜劇”とあるけれど、 はたして理解できるのか、面白いのか。 ...

フランスの古典喜劇「舞台は夢」。

[1911] フランス 喜劇映画

文芸映画はあまり成功していなかったフランスだったが、喜劇映画が好調だった。 マックス・ランデーは「キナ入り葡萄酒の 犠牲者 マクス」(1 911 )を自らの脚本により製作しており、傑作ととも言われている。 ...

[1911] フランス 喜劇映画

[1910] フランス喜劇(2)

... この喜劇はフイヤードが製作した喜劇よりも人気が高かったといわれるが、第一次大戦によって製作を中断することとなる。 (映画本紹介) 無声映画芸術への道―フランス映画の行方〈2〉1909‐1914 作者: ジョルジュサドゥール , Georges Sadoul , 丸尾定 ...

[1910] フランス喜劇(2)

[1913] フランス 喜劇映画と「人民の映画」

フランス喜劇を支えていたマックス・ランデーは1913年には、「マックスとピアノ」「闘牛士マックス」といった作品を製作している。だが、ランデーの仕事はやっつけ仕事となり、同じ人物を繰り返し演じていたと言われている。 ...

[1913] フランス 喜劇映画と「人民の映画」

[1912] フランス 喜劇映画(マックス・ランデー、アンド ...

フランスでは、マックス・ランデーが引き続き活躍を見せていた。ランデーは人気を盾に、パテ社に年25万フランの3年契約を申し出て、パテ社は受け入れている。 ... 喜劇が製作された。1910年から「ベベ」シリーズに主演していたクレマン少年は大根 ...

[1912] フランス 喜劇映画(マックス・ランデー、アンド ...

フランス 喜劇に関する質問

フランス 喜劇 チャーリーチャップリンの生家のある都市名の読み方

“CorsiersurVevey"という都市がスイスにあるのですが読み方が分かりません。フランス読み?イタリア読み?ドイツ読み?が予想されると思うのですがカタカナで確実な読み方を教えてください。

  チャーリーチャップリンの生家のある都市名の読み方の詳細


フランス 喜劇 モリエールについて

モリエールの喜劇(ドンジュアン、守銭奴、人間嫌い)について論文を書いているのですが良い参考文献が見つかりません。ネットや本屋で探してみたのですがなかなか良いのがありませんでした。もしどなたかモリエールについての研究書をご存じの方がい

  モリエールについての詳細


フランス 喜劇 私も・・・

私も今学校で音楽の新聞を作っています!!!!ベートーヴェンの時代背景についてちょぉ〜詳しく教えてください!!!!おねがぃします!!!

  私も・・・の詳細


フランス 喜劇 エリック・ロメール

エリック・ロメールの映画が大好きなんですが、この監督の映画で、日本で初めて紹介(公開)されたのは、どの作品なんでしょうか?

  エリック・ロメールの詳細


フランス 喜劇 アルルカンとピエロの違い(セザンヌの『マルディ・グラ』より)

セザンヌの『マルディ・グラ』という絵では彼の息子がアルルカンを、息子の友達がピエロのモデルをしています。服装も違います。では、アルルカンとピエロの違いは何でしょうか?両方とも「道化師」だと思っていました。

  アルルカンとピエロの違い(セザンヌの『マルディ・グラ』より)の詳細


フランス 喜劇旅行記

東南アジア旅行記6(ベトナム~フィリピン~ブルネイ)(by SATORUさん)

フランス 喜劇
この日もいつものように朝7時から始められるホテルの改装工事の作業の音で目が覚めた。あまりの騒音に再び寝ることが出来ず、ホテルの一階に降りてホテルから出されるフランスパン・ベトナムコーヒーを食べた。

その後、この日はチェックアウトをする予定だったので、レセプションで4日分の宿泊費二人分32ドル、ホテルで手配した空港までの白タクの費用5ドル、計37ドルを払おうとした。しかし、レセプションのねーちゃんは電卓をはじいて、どこでどうなったのか知らないのですが、56ドルと値段を提示してきた。「その値段は違うだろう」と言って、彼女に再び電卓で計算するように促した。

彼女は再び計算をはじめ、今度は45ドルという値段を提示してきた。故意とも取れる彼女の行動に腹が立ったので、彼女から電卓を取り上げ、彼女に電卓を見せながら、一つ一つ順を追って計算し、37ドルである事を告げ、37ドルだけを置いて、出発の準備を整えるために自分の部屋へと戻った。

私達が乗る予定であったフィリピン航空のマニラ行きは11時過ぎの出発だったので、9時に空港へ着くように白タクを手配し、8時半に宿を出発した。いつもはニコニコしていて、愛想の良かったレセプションのねーちゃんも、この一件で後味の悪さが残った。

白タクの車中で、友人にもこの一件についてどう思うと尋ねると、彼も「あれはただの計算間違いと違う」と言っていた。彼の意見を聞き、「さすがに、友人の言うことは違うわ」と思い、私も「故意で計算間違いをして私達からお金を余分にとろうと思っていたのでは・・・」と考えると無性に腹が立ったので、自分に「あの一件はただの計算間違えだったに違いない」と言い聞かせた。

「白タクの運ちゃんに余計にお金を払わなければいけないのでは」という不安もあったが、そういったことも無く無事に空港に着くことができた。空港に着くと、この地に降り立った時と同様に、空港の外は人々でごった返していた。出発ロビー入り口で、警官に空港チケットとパスポートを提示し、空港内へ入った。

搭乗手続きが行われるカウンターは、ほんの少ししかなかった。私達が今回マニラまで行くフィリピン航空の搭乗手続きはすでに始まっていた。ホーチミンの空港はコンピューターのシステムが整っていないのかどうかはわからないが、航空会社が控えに持っている座席表は手書き、搭乗券はハンコで便名が押されていて、自分の座席番号はシールで貼られていた。今まで飛行機には数十回乗ってきたが、このような何の飾りもない質素な飛行機チケットを貰ったのは初めてだったので驚いた。

私達は搭乗手続きを終わらせ、難なく出国手続きも終え、搭乗口へと向かった。「このホーチミン・フィリピン路線は恐らく乗客は少ないから快適な飛行機旅行が楽しめるであろう」と考えていた。

私達はマニラの空港でブルネイへ向かう飛行機の乗り継ぎ時間が3時間しかなかったが、フィリピン航空機は一時間位遅れてフィリピンの首都・マニラからホーチミンへ到着した。フィリピンの空港で本当に乗り継ぎがうまいこといくのかと心配になりながら飛行機に乗り込んだ。飛行機に乗り込むと、自分の予想に反して座席が全て埋まっていた。

飛行機は一時間遅れてホーチミンを出発した。飛行機に乗っている間、私は黄金の国・ブルネイに行くことが出来るという期待感から胸を躍らせていた。

飛行機は数時間後、フィリピンの首都マニラに到着した。私達はブルネイに行くために、国際線を乗り継ごうと思い空港職員に「ロイヤル・ブルネイ航空の搭乗カウンターはどこか?」と尋ねた。すると、その空港職員は「一度フィリピンに入国して第2ターミナルに行かなければいけない」といった。この時初めて私達が第一ターミナルにいること、そして第一ターミナルはフィリピン航空のみのターミナルであることを知った。しかし、私達はフィリピンについて全く知らなかったし、ましてやマニラの空港の第二ターミナルがどこにあるのかもわからなかった。

フィリピン航空が一時間遅れでマニラに到着してくれたおかげで、私達のトランジットの時間は2時間しかなかったので、何が何か全くわからず、とりあえずフィリピンを出国することにした。

入国審査場には多くの人々が縦横無人に並んでいた。私は時間が無かったので、「早くしてくれ」という気持ちで、人々の後ろに並びました。(前には偶然、中年の日本人のおっちゃんだった)数十分間待たされ、私の番が回ってきて、難なく入国することが出来た。

次に税関へと進んだ。私は入国審査の際に前にいたおっちゃんの後ろに並んだ。フィリピンに入国する際には、出入国カードに加え、税関に申請する書類を提出しなければいけなかったので、税関職員は彼に英語で、

職員:「書類は?」
おっちゃん:「???(彼は英語がわからなかった)
職員:「カード」
私:「入国審査の前に書いていた税関に申請するカードは?(おっちゃんに)
おっちゃん:「そんなもん貰ってへんわ。」
私:「(税関職員に)彼はカードを貰ってないと言っているけど。」

入国審査の前で、空港職員に税関申請書を書いてもらっているおっちゃんの姿を見ていたので、税関申請書を持っているか無くしてしまったのだろうと思った。彼は当然の如く他の税関職員にどこかへ連れて行かれ、その後彼を見ることは一切なかった。

私はと言うと、時間が無いのにも関わらず、税関職員に「荷物を開けろ」と言われたので、「私は飛行機を乗り継ぐために第二ターミナルへ行かなければいけない。とりあえず時間が無い。」と言うと、中をあけたのですが一つ一つ荷物を検査せず、荷物検査は形だけで終了した。

この時点で私達はまだ第二ターミナルがどこにあるのかさっぱりわからなかったので、周りの警察官、空港職員に「第二ターミナルはどこにある?」と尋ねたが、返ってくる答えは全て「タクシーで行け」とのことでだった。しかし、私は空港で乗るタクシーほど怖いものは無いと考えているので、どうしても歩いて行こうと考えていた。

数人に場所を聞き、やっとどの方向に進めば第二ターミナルへと着くのかがわかった。確かに第二ターミナルへ続く道は歩いている人を一人も見なかった。場所が広い空港ということもあって、第一ターミナルから第二ターミナルへ行くのには3、40分くらいの時間を要した。

私と友人は「何で空港のターミナルがフィリピン航空専用のターミナルとその他の飛行機のターミナルとに別けられてるんや?普通、国内線と国際線っていうような分け方をするやろ。例え前者の別け方をしていても、ターミナル間を往復するような無料シャトルバスみたいなものを運行するのは普通じゃない?何て不便な空港何や。」と私達はフィリピン・マニラの空港には不満がいっぱいあった。

結局、第二ターミナルへ着いたのは、飛行機が出発する1時間前だった。この時点で少々「ムッ」としていたので、空港入り口で警官に「日本人?」と聞かれたのですが、彼のいったことを全く無視して第二ターミナル内へと入った。

私達は飛行機が出発する1時間前に到着したので、搭乗手続きは始まっていた。搭乗手続きを終え、フィリピンに入国したのもつかの間、すぐに出国した。私達は一度フィリピンに入国したがために、空港使用税11ドルを払わなければいけなかった。「外貨をできるだけフィリピンに落とさせるために、空港をわざと不便なものにしているのではないだろうか」と思った。

出国審査、税関を通り抜け、ロイヤル・ブルネイ航空の出発する搭乗口へ向かった。搭乗口へ向かう途中私は搭乗口近くにあるトイレに寄り、用をたし手を洗うために洗面台へと向かった。すると、その洗面台を掃除していたと思われるフィリピン人男性が水道の蛇口をひねってくれ水を出してくれた。私が手を洗い終えると今度はその男性は手を拭くために、ハンドペーパーを手渡してくれた。やけにこの空港はサービスがいいなと思いながらも、「絶対何かある」と感じていた。すると、彼は案の定自分の手のひらに乗せられている千円札を見せた。このとき、彼がチップを要求しているのだと言うことに気づいたが、無視してそのままその場を離れた。

後から友人にこの出来事を話すと、私達がここに来る一年前にもマニラ経由の飛行機に乗ってきた際、トイレに行くと同じような感じでチップを要求された。と言っていた。

トイレを済ませ私達は搭乗口の前に着いた。私達は搭乗手続きをしたのが遅かったということもあり、搭乗口へ行って間もなく飛行機に搭乗することが出来た。飛行機に乗る際、私達はファーストクラス、ビジネスクラスを通ってエコノミークラスの自分の席に着いたが、私達はこの機内を見てブルネイがお金持ちの国であることを実感させられた。

ファーストクラスの座席は本皮張りに加え、手を置く所は「金」だった。その他、実際に見ていないが、ファーストクラスのトイレの洗面台、便所も金で出来ているという噂が有るほどでした。(「金」と言ってもめっきではありません。本当の「金」そのものです。)

飛行機は午後4時半に出発した。飛行機が動き出すと、機内にはコーランが流れ始めた。その後、すぐに飛行機はブルネイの首都バンダル・スリブガワンに向けて離陸した。「たった数時間の滞在にもかかわらず、度重なる嫌な思いをさせられたフィリピンには、二度と来るものか」という気持ちを胸に秘め、飛行機の窓から眼下に広がるフィリピンの風景を眺めていた。

飛行機に乗っている乗客の数は、相当少なく客室乗務員は一人一人にとても丁寧に接してくれた。特に機内食を持ってきてくれたとき、普通どの飛行機会社も「ビーフ オア フィッシュ?」とだけしかいわれないが、ロイヤル・ブルネイ航空では「ビーフ・・・・・、オア フィッシュ・・・・・」とその日のメニューを言ってくれた。今まで機内食はあまり美味しいと感じたことが無かったが、この航空会社の機内食は比較的美味しかったような気がする。

飛行機は午後9時前に市内から約7キロの所にあるブルネイの空港に着いた。飛行機の乗客が少なかったので、入国審査もスムーズにいった。その日泊まる宿を全く決めていなかったので、入国審査の際入国係官に、

私:「ここから、市内に行くのにはどのようにして行けばいいのか?」
入国審査官:「バスは終了してしまったので、タクシーしかない。」
私:「いくら位かかる?」
係官:「15ブルネイドル」
私:「ブルネイには安宿はあるのか?」
係官:「ユースホステルに行けばいい。名前はポサビリアだ」
私:「ポサビリア?」
係官:「そうだ。他のブルネイのホテルは非常に高い。ポサビリアに行け」

といったやり取りがった。入国管理官はとてもフレンドリーに接してくれた。その他、この入国審査官とはブルネイの見所やこの時開催されていた「ブルネイ・イスラミック博覧会」のことなどについて話をした。結局、入国審査官と私は20分位話続けた。

次に私達は税関へ向かった。税関では、職員から「酒・タバコは持っていないか?」ということのみ聞かれ、「持っていない」と言うとすぐに終わった。ちなみにイスラム教徒が多数を占めるブルネイでは、タバコは吸うことが出来るのですが、お酒を買うこともできなければ、飲むこともできない。(外国人は数リットルの酒を持ち込むことができ、人目につかないところ(ホテルの部屋)では飲むことができるみたい。(ロイヤル・ブルネイ航空の中でもお酒は用意されていない。)

私達は事前に「バスは終了してしまっている」と聞かされていたので、仕方なく市内へ行くために空港前に止まっていたタクシーに乗った。タクシーの運ちゃんは交通手段がこのタクシーしか無いということを知っているので、料金は入国審査官に言われた値段よりも700円多く取られた。

市内に行くまでそんなに時間はかからなかったが、市内に着くまで回りの様子は真っ暗で何があるのかさっぱりわからなかった。そして、私達が目指していたユースホステル「ポサビリア」に着きました。

ポサビリアに着きはじめに宿の一室(ホテルのレセプションを兼ねている)のドアをノックした。すると、一人の非常にうさんくさい中年男性が出てきた。「ここに泊まりたい。値段はいくら?」と尋ねると、彼は「ここは5つ星の宿だ。10000ブルネイドル」と吉本新喜劇のせりふのようなべたべたのギャグで値段を言った。しかし、この日度重なる移動によって疲れて思考能力が低下していた私達は、この言葉を信じてしまい一瞬放心状態になってしまった。

その後彼は笑いながら10ドルと訂正し、私達は宿泊することにした。オーナーが言っていた五つ星の部屋は、全く役に立たないクーラー付きのドミトリー(4人部屋)、シャワー、トイレ共同と言うものだった。

私達は大変疲れていたので、すぐに寝た。本当に長い一日が終了した。

【旅行時期】2001/08/~2001/08/
【エリア】フィリピン
【テーマ】
【投稿者】SATORU

イベリア半島旅行記(15):3月16日(1)リスボン・ロカ岬、シントラ(by 旅人のくまさんさん)

フランス 喜劇
<2005年3月16日(水)>

 竹村さんが話された、この日の行動予定です。7時15分モーニングコール、朝食は7時30分から。8時45分にホテル出発でした。順調な旅行の様相になりましたから、一定のリズムが出来てきました。いつも通り、6時頃には起床しました。

<ポルトガルの概況>
 現地ガイドさんからお聞きしたポルトガルの概況です。日本の1/4、人口は1/10です。北部に人口集中し、南部は過疎化しています。北は2千mクラスの山、南部は平坦です。雨は冬の時期に降り、夏は乾季です。降雨量は北が多く、南部は少量。今年はダムの貯水量が減り、夏の水不足が懸念されています。平均気温は20度C程度で、日本より高めです。
 首都リスボンでは、13万台の車が通勤で流入し、駐車場探しが大変なようです。国産車の生産はなく、通勤に会社の車を使う人も多いそうです。日本の外来語となったものは、コップ、カッパ、コンペイトウ、フラスコ、ジョウーロ、パン、テンプラ、シャボン、テンプラ、チャルメラなどの言葉があります。
 
<ロカ岬見学>
 ロカ岬見学の途中で改装中の闘牛場を見ました。既に5年がかりですが、のんびりと改修をやっているようで、完成の目途はないようです。水道橋も見ましたが、ローマ時代のものにしては、新し過ぎる感じでした。
 岬への道はつづら折れの登りになっていました。その角々で、大西洋が見渡せました。ヨーロッパ大陸の最先端は、松葉ボタンが一面を覆っていましたが、花はまだ疎らでした。十字架が立つ記念碑をバックに、竹村さんに記念撮影のシャッターを押してもらいました。
 カモンエスの「ここに地果て、海始まる」の詩にある岬は、最先端と言う特別な位置を措いても、素晴らしい景観でした。岸壁に押し寄せ、砕ける波に、暫く時を忘れて見入りました。一時期、宮本輝の作品を全部読んだことがありますが、同名の小説もありました。

<シントラ見学>
 シントラで連想するのが、ベートーベン(1770~1827)の時代のシントラー(1798~1864)のことです。ベートーベンの死の床にも立ち会った人で、「諸君喝采したまえ、喜劇は終わった」の言葉を聞いた一人とも言われています。(例えば、諸井三郎著、ベートーベン、旺文社文庫)
 シントラー(シンドラーの表記もあります)は、自称「無給のベートーベンの秘書」と呼んでいたようです。「ベートーベン伝」の著者として知られますが、近年の研究で、評価が二分されています。
 そのシントラーとの関係は分かりません。シントラの町は「文化的景観」が、世界文化遺産として登録され、その中心が王宮です。ロカ岬見学の帰りに立ち寄りました。
 王宮は残念ながら休館日でしたから、外観だけの見学でした。円錐形の巨大な二本の煙突がシンボルです。自由時間になりましたので、土産物店巡りや、露地を回って古都の雰囲気を味わいました。幸運の雄鶏の置物やコルク製品等が名物です。土産用にいくつか買い求めました。

<おじやの昼食>
 この日の昼食で飲んだワインの話です。白ワインのハーフボトルでした。メモしたラベルは、VINHANS GARCAS VIHNでした。残念ながら、これも手元の事典をいくつか当たってみましたが製造会社など、詳しいことは分かりませんでした。
 1995年に世界最高ソムリエに輝いた田崎真也のセレクトしたワインを飲んだり、番組を見る事が増えました。その田崎さんのポルトガルワインの評価です。「DO(原産地統制呼称法)が確立されてから、まだそんなに歴史がありませんので、逆に言えばこれからの可能性は無限大といえます。価格も魅力的です」(1996年発行、ワイン生活)とありました。
 田崎さんの本からのご紹介です。フランス風のエスプリも入っていると思いますから、その積もりでお読みください。「飲む本人が美味しいと思う時が飲み頃だと思います。若い女性が好きな人もいれば、熟女が好きな人もいると同じです(ワイン生活)」、「ワインは女性と同じで。やさしく大切に扱った方がいいということですね(ワイン生活)」。後は、ご自身でお読みください。
 田崎さんに関しての話です。自分で釣った魚の料理に対し、ワインではなく、「この料理には熱燗の日本酒が一番合います」と話された番組を見たことがあります。シャブシャブの肉料理には白ワインを勧められていました。まさに達人だと、いつも感心させられています。
 ところで、肝心のおじやの話です。日本語が達者なイタリア生まれの人が熱心に勧められていました。私の評価では、お代わりする程のものではありませんでした。食前酒で出されたのは甘いポルトワインでした。小さなグラスでしたから、丁度いい量です。それ以上は飲めません。

<ベレンの塔、発見のモニュメント見学>
 大航海時代の1519年に建築されたベレンの塔は、ジェロニモス修道院と併せ、世界文化遺産に登録されています。もともと侵入者を見張る目的で建設された砦ですが、その歴史を忘れさせるような、優美なマヌエル様式が見事な白亜の塔です。自由時間の間に、塔の西側にも回って写真を撮りました。
 発見のモニュメントの方は、エンリケ航海王子の500回忌に当たる1960年に建造されました。テージョ川に面したベレン地区にあり、塔からも至近距離にあります。
 高さ52mのカラベル船の先頭に立つのがエンリケ航海王子です。その後ろには、ポルトガルの歴史的な人物が続きます。航海者、学者、詩人、宣教師などです。塔へはエレベーターで登ることができますが、この日は外観だけの見学でした。

<ジェロニモス修道院見学>
 航海士ヴァスコ・ダ・ガマ、詩人カモンエスが眠る修道院です。マヌエル1世が1502年に建設した華麗な寺院です。マヌエル様式の記念碑的建築物です。修道院が寺院に替わったようです。
 一番奥にあるいくつもの絵画が飾られた祭壇、見事なシルエットの回廊等、さすがに世界遺産に指定された寺院だけのことはあります。

<リスボンの地下鉄>
 ホテルでの食事の後に時間がありましたから、リスボンの地下鉄乗車に出かけました。最寄のローマ駅で10回券を入手して、カラベラ線の南の終点、カイス・ド・ソドレ(Cais do Sodré)駅まで向かいました。昼間見学したベレン地区の東側に位置します。昼間、現地ガイドさんに、「回数券は自動販売機で買えますか?」と尋ねましたが、「エッ」といった反応でした。それで、それ以上は質問しませんでした。地下鉄の窓口で買い求めた回数券は、6ユーロ15セントでした。
 大分遅い時間になっていましたが、先生に引率された修学旅行生らしい団体も乗り合わせました。ローマホテルの宿泊客のようでした。リスボンの地下鉄は、治安がいい印象です。利用をお勧めできます。


  ロカ岬で
 大海の波は寄来て砕散るロカの岬に春は来にけり

 ユーカリの林を出でて赤松の林は続く岬の小道

  シントラで
 喘ぎつつ登るシントラ石畳藁に挿したる風車あり

  昼食のレストランで
 食前のポルトワインを飲干しぬ甘さ懐し小さきグラス

  発見モニュメントで
 航海を讃し発見モニュメント旅立つ先は今も果無し

【旅行時期】2005/03/11~2005/03/18
【エリア】リスボン
【テーマ】世界遺産・遺跡・秘境
【投稿者】旅人のくまさん

大天使ラファエル(?)の歌声@日仏学院(by コクリコさん)

フランス 喜劇
フランスの歌手ラファエルがアルバム『キャラヴァーヌ/キャラバン』日本発売キャンペーンのために来日。
9月29日20時半から東京日仏学院のレストラン「ラ・ブラスリー」でキャンペーン・ライブがあるという情報を得、早速主人と二人分の予約を入れた。

ここ数年、フランス人喜劇俳優コリュスが1980年に始めた《心のレストラン》というボランティア活動による《Les Enfoires/愚か者たち》のチャリティーコンサートのDVDを毎年買っている。
このコンサートにはフランス(カナダやベルギーの歌手も)の有名な歌手、俳優、スポーツ選手などが出演し、楽しく夢のようなコンサートになっていて大ファンなのです。
2006年のコンサートからラフアエルは出演。
私のお気に入りの歌手は他にたくさんいるので若いラファエルの特別なファンだったわけではありません。

でも『キヤラバン』で2006年に第21回ヴィクトワール・ドゥ・ラ・ミュージック最優秀男性歌手賞を受賞したラファエルが来日し、お手頃価格でミニ・ライブがあると聞いたら、行かないわけには行きません(^_^)v

2005年3月にリリースされたラファエルの3枚目のアルバム『キャラパン』は3ヶ月で130万枚売り上げ8月中旬までヒットチャート1位。

1975年11月7日にパリ郊外のブーローニュで生まれる。
父親はロシア出身の弁護士、母親はアルゼンチン出身。
成績の良い少年で法律家を目指していたそうですが、幼少の頃からデヴィッド・ボーイ、ボブ・デイラン、ジャック・ブレル(私好き?)、レオ・フェレの影響を受け、音楽好きだった少年は音楽の道に進む。
2000年に初めてリリースしたアルバム「オテル ドゥ リュニヴエール/宇宙ホテル」はあまり売れなかったが、テレビ出演してから徐々に売れ出しヴァネッサ・パラパラディー(ジヨニー・ディップの今の奥さんネ。私にはジョニーよりバネッサの方が有名人^^;)のコンサートの前座を20数回、子供の頃からの憧れデヴィッド・ボーイのパリ、オランピア公演での前座も務め、2005年『キャラバン』に収められた曲を中心にフランス国内のツアー、そしてパリのオランピアで大盛況となる。

ざっとこんな感じです。

後援はアニエスb. 日仏学院、フランス大使館、東芝
前日はアニエスb.で無料コンサートが開かれたとのこと。

【旅行時期】2007/09/29~2007/09/29
【エリア】飯田橋・九段下
【テーマ】イベント・祭り・花火
【投稿者】コクリコ

イタリアの誕生日会 コモ湖近郊(by yaonoriさん)

フランス 喜劇
イタリア人は、送別会、誕生会と称して日常的にパーティーを自宅でやっており、日本人の場合と違いこの種のパーティーは対象者が自ら主催者となり、パーティーを企画運営します。気のあった友達を呼んで手作りの料理でもてなすささやかなもの。イタリアでのこうした友人同士、家族同士のパーティーは、友人との間に家族同然のしっかりした信頼関係を築くことが、一人前の社会人として認められる大きな要素であり、大人でも誕生日パーティーを開くのです。
この夏、ミラノに居る友人の誕生日パーティーに招待されました。
パーティーの内容は会話中心。あくまで、時間をともに楽しむという姿勢が感じられます。日本のように酌をしあう習慣がなければ、強引に飲まされることもありません。その為、深酒する人は居らず日本の宴会のような泥酔者による悲喜劇は期待できません。夏のパーティーには、バーベキューが、しばしば加わります。肉やソーセージはレモンや香草で下味を付け炭火焼。料理は、すべて手作りで、パーティーの主役の親戚が集まって一日かけて準備します。イタリア人は男性も料理を作るし、多すぎる位、味見をしたり楽しみながらやっているので、準備段階から大騒ぎ。ブルスケッタ用の、フランスパンは一枚ずつ炭火焼で焼いていく。パーティー会場は、お庭。テーブルの上には、買ってきた紙のテーブルクロスをかけ、紙皿やフォーク、ナイフ、フランスパン。離れたテーブルには、銀紙を巻いた氷に生ハムを被せ夕張メロンをサイコロ状に切って並べた生ハムメロンを初め、9種の手作り前菜が並べられた。大きなボールには赤ワインに、柑橘系のフルーツを入れた『サングリア』。パーティーは夜の8時からだが、7時半ごろから人は集まり、よく冷えたサングリアで順次乾杯。始めは立食で、サングリアを片手に前菜を食べていく。集まった面々は主役エットーレを含めて仲の良い20代30代の友達30名だ。立食で前菜を食べながら歓談した後は、着席で、バーベキューのお肉が配られた。皆、お腹が減っているようで、すぐに皿は空となる。食べ物はすでになくなっていても、ワインだけはすすむ。こちらの人は食べ物がなくても平気で、酒を飲む。 デザートに、ラム酒がかかったサイコロ状に切ったスイカが配られた。そのまま出さないのが日本と違うところだ。皆がほろ酔いになってきた頃から、掃除のブラシを利用して音楽に乗ってリンボーダンスの始まり。ステファノのお父さんなんて、わざわざ上半身裸になって、バーをくぐる。もう60歳なのにまだまだ若い。ノリノリの中、いよいよ巨大な誕生日ケーキの登場。お誕生日の歌を全員で歌った後、よく振られたシャンパンが、エットーレ目掛けて発射!!シャンパンだけでなく、ワインが何本もかけられ、もったいない!ケーキの味は最高に美味しい。しかし、余ったケーキも彼に投げられ、ケーキのチョコレート板までも彼の背中に貼り付けられている。とんだ誕生日だけど、主役は大喜び。その上、スイカの皮を頭に被って踊るなど、周りを楽しませることも忘れません。お庭は、ワインのかけ合いで、ビシャビシャ。皆は、毎度のことなのか、着替えのTシャツを予め数枚持ってきていた。ケーキの後は、エスプレッソ。そして、お決まりの食後酒リモンチェッロで消化を促す。夕食後、そこがディスコとなり踊り好きのイタリア人は、曲をリクエストしたり、全員で歌ったりする。深夜なのに音楽は、お庭で大音量。そこでは、踊りの上手・下手は問われず、思うが侭に体を動かしリズムを取ります。明け方まで踊ったり、全員で歌ったり、おしゃべりをしたり。普段は決して、酔っ払ったりしないイタリア人が、羽目をはずして、はしゃぐ唯一の夜。踊っている彼らの表情の楽しそうなこと!!パーティーの後片付けも、全員で踊りながら、楽しんでやってしまい、踊りとは彼らの生活の一部ということなのだろう。楽しい時間が過ぎると、それぞれに抱き合いながらの挨拶をして、お別れです。 「仲間とおしゃべりをし、時には、踊り、また、歌い、ともに楽しい時間を過ごす」これがイタリア人のパーティー精神のようです。


参考URL:
  • http://4travel.jp/traveler/yaonori/album/10080288/

  • (写真多数)

    【旅行時期】2004/07/29~2004/08/08
    【エリア】コモ
    【テーマ】イベント・祭り
    【投稿者】yaonori

    413 パリの日本料理 人気の中華料理店(by 片瀬貴文さん)

    フランス 喜劇
    1961年9月1日(金)

    フランス国鉄で研修開始。
    本社に出向いて、線路保守の基本システムを聞く。
    帰途外務部に立ち寄り、研修行程の最終詰め。

    1961年9月2日(土)

    Yさんたちの、パリガイド。
    夜、コメディー・フランセーズで、モリエールの喜劇を見る。
    せりふが難解で、ほとんど理解できない。

    1961年9月3日(日)

    久々に一日在室して、身の回りを整理する。
    夜、同室のTさんと、リュクサンブールの中華料理店「中法楽園」で食事。

    現在のパリには、日本料理店がない。
    9区に「富士」という店はあるが、メインはベトナム料理で、日本料理らしいものは丼しか無いとのこと。

    あまり評判が良くないので、一度も行っていない。
    つい最近まで「たから」という日本料理店があったようだが、閉店したらしい。

    中法楽園には、愛想のいいフランス人の給仕さんがいて、評判がいい。
    「リ・ソテ」と注文すると「チャーハンね」、「スープ・ド・ヌーユ」と言えば「ラーメンね」と、日本語が返ってくる。

    どちらかと言えば、平素日本人であることにコンプレックスを持ちがちな日本人留学生に、ホッとしたものを感じさせる。
    そのためか、人気がある。

    もちろん安いことと、ほどほどながら味のいいことも、忘れてはならない。
    チャーハンとラーメンを食べれば、4フラン(当時280円)くらいで上がる。


    【旅行時期】1972/09/01~1972/09/03
    【エリア】パリ
    【テーマ】プチ留学・カルチャー体験
    【投稿者】片瀬貴文

    フランス 喜劇関連エントリー

    *恋は足手まとい*

    ... gooより 19世紀の喜劇作家、ジョルジュ・フェドーの戯曲を、華やかに映像化したゴージャスな ロマンス・コメディ。 ・・なのですが、コメディーとはいえあくまでもフランス映画なのでわかにくさもあり 万人ウケする作品ではありません。 ...

    *恋は足手まとい*

    (♪観劇)舞台は夢

    ... 私たち観客も騙される. それはやはり喜劇であるし、 私たちが現実には起こせ ... 場面で言い換えれば「どんでん返し」になる. このフランス古典劇は、400年近く前のピエール・コルネイユの作品で、 フランスでは370年以上前に初演を迎えている. 日本で ...

    (♪観劇)舞台は夢

    フランスのローマ街道を行く

    ... いい風合いになるそうですよ」 と説明書(フランス語)を読んでくれたK1君。 へ~。 なんか萩焼の器みたいねぇ。 夏に屋外で使ってみっかなぁ。。。 ... 上演されたのは、ローマ皇帝をたたえる物語や喜劇。 天井には日よけのテントが張られ、観客は朝から ...

    フランスのローマ街道を行く

    今日は何の日 12月1日

    ... 貞享暦作成の功により安井算哲を任命 1789年 フランスの医師・国民議会議員のギヨタンが断頭台(ギロチン)に関する法案を国民議会に ... 日本勧業銀行が特等100万円の宝くじを発売 1948年 松竹新喜劇が大阪中座で旗揚げ公演 1949年 初のお年玉年賀はがきを ...

    今日は何の日 12月1日

    「知られざる傑作」バルザック

    ... をはじめ『人間喜劇』からえりすぐった6つの短篇を収める。 以前から読んでみたかったバルザック。 いつものように、まずは短編から手をつけてみました。 オノレ・ド・バルザック(1799―1850)は、フランスの小説家。 S.モームは、バルザックを ...

    「知られざる傑作」バルザック